傷を癒さないで
開かれた時に痛いんだよ
028:悲鳴が頭の中を焼き尽くしてしまうような感覚だけが残っている
諍いは些細なことで発生する。路地裏にたむろするような人種は常に何かに飢えていて、沸騰しそうな熱を抱えてたびたび暴発する。葛はタイミング悪くそれに巻き込まれた。本業の最中ではなかったことが不幸中の幸いか。本業の最中であったら問答無用で叩きのめして必要となれば排除する。
「いいから持ってるもん全部おいてお家に帰んな、お坊ちゃん」
葛の怜悧な容貌は幼稚な挑発にさえ動じない。切れあがった眦や白皙の皮膚。着衣や爪先など身なりにも怠りはなく隙もない。路地裏は無法地帯であるから綺麗なものは目立つし反感を買いやすいものだ。葛はさてどうしようと変わらない表情の奥で悩んだ。殴りかかってきたやつは退けたが、連中が逃亡を決定するほどの威力や影響はなかったようで、切り抜け方を知らない葛は躊躇するばかりだ。こういう時に葵であったらどうしたろう、と思う。袖の下でも渡してお引き取り願うか、連中全員を叩きのめすか。
リーダー格の男が葛の胸倉をつかみあげた。
「なんにもしらねぇお坊ちゃんみてぇだな。しょーがねぇなぁ、ここでのルールって奴を」
ざわりと葛の皮膚が粟立った。
「教えてやるよ」
男の言葉を聞いた葛の行動は速かった。つま先立ちについていた体からひざ蹴りを繰りだし、腹を強打する。怯んだ男の髪を鷲掴んでそのまま壁へぶつける。ぐず、と鼻が潰れたような感触が奔る。そのまま、野菜でもするようにごりっと擦り下げる。顔面の神経は案外敏感だ。男がもんどりうって苦しむのを見て取り巻きが怯んだ。葛が一歩踏み出すたびに周りの輪がざわりと一回り広がる。自棄を起こして向かってくる輩は体術で投げ飛ばす。その手を上から思い切り踏みつける。固い靴底の下で骨が軋む。葛は自棄を起こす連中と対照的にどんどん体や脳が冷えていくのを感じた。冷静に対応するそれは諍いや喧嘩と言うより戦闘だった。一対多数であるにもかかわらず葛の戦闘術は相手を圧倒した。葛の頬に返り血が飛んだ。頬を殴りつけた相手は血と一緒に欠けた歯を吐いた。
「教えてもらおうじゃないか」
凍える空気の中で主導権は明らかに葛が握っていた。見せつけられる圧倒的な攻撃力に連中の誰もが葛に絡んだことを後悔した。リーダー格の男が潰された顔を抑えて逃げ出した。取り巻きも蜘蛛の子を散らすように逃げていく。不意にしんとした場の中で葛の血がふつふつと沸いた。男の言葉が何度も脳裏をよぎり、そのたびに血が熱く燃えた。
『オシエテヤルヨ』
「……俺は、もう、あの時の俺では、ないのに」
額を抑えて座り込みそうに足がふらついた。急激な煮沸と冷却に葛の体が処理しきれない。
忘れられない。軍属として籍を置いたときに教官や幹部連は葛の出自に配慮した。葛の家柄は代々武人の名手を輩出していた。葛もいずれはそうなると、幼いころから言われたし祖母の厳しいしつけもそのためであると不満は抱かなかった。だがその突出は、同じような程度の少年が集まったとき、葛を暗渠へ突き落した。葛自身の努力による鍛錬の結果と教官の賛美は同輩の嫉妬を買うには十分すぎた。年長の者に呼び出されてのこのこ出向いた。優しく抑えつけて少年たちは葛を蹂躙した。
『お前が知らないことを教えてやるよ』
シャツを裂かれ裸に剥かれて膝を掴まれ脚が開く。何をされるかさえ知らなかった葛の体は引き裂かれた。その時とその後の醜態は見るも無残で葛の体の奥深くへ消えない傷を残した。少年たちは葛のありとあらゆるものを否定し、粉砕した。喉へ奔る白濁の苦みや体内の熱い奔流。そう言えばあの時も焼却炉が近くにあるような腐臭のする界隈であった。
「なぁ、」
肩に手が触れる。刹那、葛の裏拳が相手の頬を直撃した。骨を殴りつけた響きが葛の手の関節で殷々と振動した。
「オレですけど?」
殴られた頬はすでに紫に腫れ始めている。肉桂色の短髪は乱雑に短く襟足は刈りあげられてすっきりとうなじが伸びる。いつも楽しげに笑っている胡桃色の双眸は葛を詰問している。行動の理由を。
「…すまん」
「相変わらず強いな。でもあれはやりすぎだ。顔面もそうだけど、踏みつけてた手、骨が何本かイッちゃってるぜ。折れる音がしてた」
葵の双眸は豊かな実りの色だ。呼応するように葵の感情豊かで表現方法も心得ている。
「お前には関係ない」
「へぇじゃあこれはなんでだよ」
葵は猫のように腫れた頬を葛の肩口へこすりつけてくる。脈打っているのが判る。咄嗟の事であったから葛も力加減はしなかった。葵は葛の手を取って腫れた頬へ当てる。
「冷たくて気持ちいいな。帰ろうぜ。オレも仕事終わった帰りだから」
放り出されていた鞄は機材を詰め込むものだ。葛の頭の中で予定表が繰られる。そう言えば今日は一件出張予約があって、担当は葵だった。
その場を動けない葛の手を取って葵はずんずんと歩きだす。反抗するように手を払うと葵は改めて手を取る。
「帰ろう。お前も怪我してるよ」
訳のわからないまま葛は引きずられるように帰宅した。
客層のまともな表通りを取って帰るなり葵は閉館の表示を出して硝子戸の日除けだけではなく目隠しまで下ろしてしまう。
「おい」
「今の葛に仕事はさせられないな。出来るとも思えない。なんてったって、相棒に裏拳見舞うんだからな」
葛がぐぅと押し黙る。葵が言うのは真実で葛も同じ立場であれば同じ対応をしたにちがいない。葛は浮かされた熱っぽさのまま階段を上がる。葵がかける声にも返事をしない。先刻の戦闘で燃え上がった熱量が膨張して崩壊寸前だ。なんとか冷却したかった。葛が心を鎮めたい時の処方は閉じこもることだ。誰とも話さず食べず呑まずただ眼を閉じる。今までそれでしのいできたのだ。今回もそうするつもりだった。
諍いのもとになったのはリーダー格の男の言葉だ。葛が忘れかけていた、奥底へしまって目に触れぬようにしてきた一連の出来事をまざまざと思い出させた。それは煮えたぎる怒りと何も出来なかった己への冷徹で苛烈な怒りを呼んだ。葛は男だけではなく己自身にさえ殺意を感じた。どさりと寝台に横になる。靴を脱いで膝を抱えるように丸まる。母体内で護られている時のような自己防衛の姿勢は、己の心臓を抑えつける膝の固さが愛しい。
「かずら!」
ばん、と扉が開かれる。同時に葛の静寂と閉塞が消え去りさわがしい日常があたりを占めた。葵だ。紫に腫れていたところには白い湿布が貼られている。葵は救急箱を抱えてずかずかと葛の部屋に入っていくる。
「何をしに来た。だいたい、写真館を急に閉館にして」
「今のお前に店番を頼むほどオレは人材に困ってないし、お前を見せものにする気もないよ」
葵が救急箱を開く。ぷんと薬品の臭いが鼻をついた。
「手を出せよ、両方。それと頬の切り傷も。傷が残ったらどうするんだよせっかく綺麗な顔してるのに」
葛は寝台の上に腰かけたまま従順に両手を出した。やわらかい手の平は握りしめられていた爪痕がくっきりと刳れて紅く残っている。葵はその手をくるりとひっくり返す。関節の皮膚が剥けて肉が露出している。関節の変な位置へずらされたのか指のつけ手が少し蒼みをおびているところさえあった。
「我慢しろよ」
葵が指と手を固定してぐっと力を込めた。ごぎ、と音を立てて関節が嵌まる。神経に触るような痛みを刹那に感じたが、もどかしいような動かし難さはなくなった。
「次は傷。お前全然、自分にかかる負担を考えない戦い方するから。痛くないのかよ」
顔面や腹部を殴りつけた指や手の関節の皮膚がすりむけている。血がにじんで垂れているところもあった。葵は綿でそれを拭きとってから消毒液を浸した布でひたひたと拭う。割れて出血していた爪も同じように手当てする。爪ばかりは剥ぐわけにもいかず、極力、洗浄を必要としない作業を任せると言った。
「爪の剥げかけとか、割れたとか、そういう傷は洗ったり濡らしたりすると治りが悪いからさ」
現像作業はしばらくオレがやるよ。葵はそう言って紅い花の散る消毒液に濡れた布を捨てた。
「よく知っているな」
「オレ、経験豊富ですから」
ふふんと偉そうに口角を吊り上げる葵に訊いた俺が馬鹿だったと葛が肩を落とす。
「だからさ、お前の喧嘩は危険だよ。ここなんか、もう少しで肉が削げるぞ。縫った方が好いんだろうけど、医者を通すと狸親仁にまで知れるからなぁ」
本業の任務外での負傷や不始末は処罰や始末の対象となり得た。不利益であれば切り捨てるその基準の冷淡さを葵も葛も良く知っている。葵は手際よく葛の手を手当てする。消毒の後に布を当て、包帯を巻いていく。端と端と引っ張って引き締めるときつくもなく緩くもなく結ぶ。
「痛いか?」
「別に」
ぱたん、と道具を片づけて救急箱の蓋が閉まる。
「……なぁ、訊いていいか。なんであんなにお前は怒ってたんだ」
葵は諍いを見ていたことを明かした。必要があれば助力するつもりで飛び出す機会を狙っていた。その葵の目の前で葛の態度が豹変した。従順なだけだった葛はすぐさまその優劣をひっくり返し圧倒的な強さで連中を蹴散らした。それだけではない。蹴散らし方にも問題があると葵は思った。あそこまでひどいけがを負わせる必要はないはずだった。連中はリーダー格がぶちのめされてすでに逃げ腰だった。手の骨を踏み折ったり、顔面を壁で殺ぐように抉る必要もなかった。葛の攻撃には明らかに憎悪が込められていた。
「怒ってなどいない」
葛は葵の感覚の鋭さに舌を巻いたがおくびにも出さない。戦闘を行う際、葛はどこかで自分の体さえも破壊されてしまえばよいという感覚を覚える。破壊願望などなどではない。日常生活は普通に送るし死にたいとも思わない。それでも、葛の中で何かがぷつりと切れてしまうことがある。軍属少年である葛を集団で暴行したすべての年長者を葛は後日全員叩きのめした。だが事態はそれだけでは収まらなかった。今度は別の年長者が葛を襲った。終わりなどなかった。替えはたくさんあった。葛は報復と抵抗を止めた。
葵の胡桃色の双眸がじいっと透き通る強さで葛を見つめる。床に膝をついている葵の方が目線が低く、見上げる形になっている。葛は寝台に腰かけたまま居心地悪く身じろいだ。
「うそだ」
ぴく、と葛の指先が震えた。
「なぁ、なにがあったんだ? オレと知り合う前の事? それともオレが何かしちゃった?」
葵は純粋に原因を問うている。だが葛は明かす心算はない。知るということは即ち、その事象に対する責任さえ背負ってしまうからだ。知ってしまったら、知りませんでしたではすまぬ事態がきっと来る。葵をそんな泥濘に沈める心算はない。
「なにもない」
葛の返答は速い。がだそれが逆に葵の懸念を深めたらしく葵は不服そうに眼を眇めて葛を睨んだ。
「うそだ!」
葵の返事も早かった。窓から差し込む昼間の明かりで葵の瞳が透ける。肉桂色の髪は飴色に、胡桃色の双眸は琥珀に透けて煌めいた。それは葵の純粋さや真っ直ぐさを示している様でたまらなく愛しい。だからこそ葛は己の忌まわしい過去を封じている。過去を打ち明け合う結束を必要としない仕事である本業はありがたかった。ただ命令が下れば二人は組んで仕事をし、個別でも請け負う。そこで今喧嘩中だから連携できませんとか言ったわがままは通用するどころか粛清の理由になってしまう。この本業を生業とする以上、腹に一つ二つ、堪えるものがあって当然だった。
「ならばお前は過去をすべて話せるか」
お前の過去を全て俺に言えるのか。俺の過去の全てを聞いて何事もなく任務を遂行できるのか。葵の朗らかな笑みは消えて泣きだしそうに歪んだ。葛の目が葵が巻いた包帯へ向けられる。きつくもなく上手く巻いてある。指もちゃんと動く。
「話せる」
葛の目がはっと葵を見据えた。緊張で仄白いような顔色の葵が膝をついて葛を見上げていた。それはどこか、王に額ずく臣下のように忠誠と真摯に満ちたものだった。
「オレはオレが知っているオレの全てをお前に話せるよ。それでお前の気が済むならそうする。お前がもう、自分の体さえ傷つけるような戦い方を、能力を無理して堪えるような戦い方をしないっていうなら、オレはオレの全部をお前に話すよ」
ヒュウ、と葛の喉が鳴る。乾いた喉を嚥下した唾液が滑って落ちていく。かちかちと歯列が音を立てて振動する。全てをさらすという葵の潔さは葛の恐慌を呼んだ。全てをさらすなど葛にとっては禁忌でしかなかった。振り返りたくもない過去。自分で選びも出来なかった未来。倦んだ現在。過去と向き合い、それをさらすことを躊躇しない葵はひどく魅力的だが同時に葛にとっては暴力的でさえあった。
「もう少しものを考えてものを言えッ」
「考えて言ってるさ! 本当にオレは! お前にならオレの汚点さえも見せられるよ」
留学経験もあるという葵の経歴を思い出す。同居の際ある程度の略歴を話し合っている。そんな恵まれた人生を生きてきた葵の汚点など高が知れていると葛は歯を食いしばった。きしりと奥歯が軋んだ。齟齬を明確に感じた葛を葵が押し倒した。寝台の上であったから衝撃によるけがはない。葵は葛を寝台に押し倒し、のしかかりながらまっすぐに葛の双眸を見据えた。こわかった。
「オレは…葛、オレは、お前と、お前とは綺麗なだけの関係で、上面だけの関係で終わりたくないんだ。葛の汚いところもオレの汚いところも、全部全部共有したい。だからさ、そんな、そんな――」
葵が笑んだ。穏やかで慈愛に満ちた笑みだ。人懐っこく表情をくるくる変える朗らかで明瞭で心地よい。
「なかないでよ」
葛は眦から流れた涙が耳のくぼみへ溜まっていることに初めて気づいた。瞬くたびに新しい涙が落ちて頬骨の高みから低いところへと落ちていく。
「オレ、は、お前の」
葛は葵がその後に紡ぐだろう言葉が判る。だからこそ。余計に。聞いてはならない。言わせてはならない。
「やめろ!」
びくりと震えた葵が怯む。こんな辛いような顔をさせたいわけではない。人懐こくて朗らかでいつも楽しげで真っ直ぐな葵を損ないたくなどない。だから。
「最後まで辛いだけだったら、良かったんだ――…!」
嬲り者にされて堪えるだけの日々であったなら良かった。傷を負った体は与えられる優しさにすがってしまう。ふわりと優しいそれにすがる。その奥に暗渠のような悪意が控えていても葛はきっと、その優しさにすがってしまうから。
「馬鹿野郎ッ!」
一喝に葛ははっと顔を上げた。葵がぎゅうと抱きついてくる。背中に腕をまわして、脊椎を軋ませるほどきつく抱擁される。
「辛いってことが判るなら、辛くないことがあるってことも判るだろ? だったらそれを探してよ。辛いことを知っているなら辛くないことを探して。辛いだけなんて、駄目だ、絶対に駄目だ。辛いなら、辛くないこともあるから」
ぽとぽとと葛の頬へ温い滴が落ちた。
「お前が泣くことでは、ない…」
「言ってたよ。辛いことがあるなら辛いということが判るということだから、辛くないこと、楽しいことを探しなさいって。好きな人が訪ってくれないなら、訪ってくれた時の喜びが何倍にも膨らむでしょうって。辛いだけのことなんかないんだって」
「…ずいぶん優しい、言葉だ」
「オレの大事な女性の言葉。彼女はずっと、そう言ってた。……オレを、産んで、ずっと」
ぼろぼろと泣きだす葵が葛の胸に伏せって泣いた。
「つらいだけだなんて、いわないで。お前が辛いとオレも辛い」
葛がふぅわりと笑んだ。涙まみれの顔で葵はそれを見た。それはひどく美しかった。
「優しい親御さんだな。俺は、二親より祖母にしつけられたようなものだからな…そういう、優しい甘さはどうしたらいいか判らない」
武士として生きよ。祖母の凛とした掠れ声。けれどきっとそれが己には似合いなのだと思う。
だから。葛は自分が悲鳴と血潮と傷口と汚辱の中で生きるのは当然だと思う。ただそこへ葵を巻き込んではならない。
「ありがとう」
終わりだ。薄く微笑んだまま葛は決着をつけると極めた。葵とは決別するだろう。基盤が違うということもあるがきっと、目線や視点や見つめる未来が、違うから。それでも抱きしめてくれる熱い葵の体は葛を酔わせる。
貪るように唇を吸った。互いの舌が絡みあう。葛は自ら下肢の衣服を脱いだ。
お前は美しい。
私は汚い。
それはもう遠く隔たるほどにお前は美しく穢れている。
だから近付かずに遠くから私を見ていてほしい。
《了》